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アパートから 

7月のアパートにきていただいたみなさんどうもありがとうございます。
今月より、「A Part Of Apart1F CURVE Facebook」 「A Part Of Apart2F naif Facebook」
スタートしました。
「Gouache fukuoka Facebook」もこちらからご覧いただけます。
僕自身、facebookを通してアパートの違った一面を創作しながら、皆さんとコミュニケーションできることを楽しみにしています。facebookがよいプレイグラウンドとなれば幸いです。

今月来店されたお客様の多数がSALEに行かれていない、または、SALEシーズンということをご存知なかった。
これには少し驚いたが、たしかに、アウトレットや低価格のSHOPが当たり前になっている昨今、
SALEめがけて何かを買うという時代でもなくなってきているようだ。随分前からでしょう。
ファッションに盛り上がりがあれば、SALEも同時に盛り上がるのだろうが、今はそういう時代ではないらしい。
少しさびしい気もするが、ユニクロフリース誕生から18年と考えると時代も世代も変わったのだ。

僕はお店というものの存在がすごく好きで、レコード屋、本屋、パン屋、など店に入るのが好きだ。
ひとつひとつに値段がつけられているモノが並び、こちらが選ぶ目線をもって(丁寧に)手に触れることができる場所だ。
例えば、扉を開けると、「僕の世界があった!」と思える店が稀にある。
「愛おしい傷口」というフレーズが胸を突き刺すような、はぐれた子供たちのための店がある。
こころが泣き出すような音楽がかかるいかれた店がある。(ビートルズのSlow Down、Revolutionなど)
それはつまり「かわいい」のだと思う。
10代の自分が求めていた、出会った数々の店はそういう店だったと記憶している。
そして今自分が店に立つようになり、あるべき佇まいをもつ店として成立しているのだろうか?
まだまだゴールの方向すら見えない状態だが、それでも
服や食べ物が、自分自身がクリエーションを行う毎日の積み重ねのための衣装やエネルギーとなり、
その結果、心から満足や喜びをえられるのであれば、その手助けとなる服やコーディネートを提案していきたい。
自分がわずかながら、社会に貢献できる方法だと信じている。

「闇を光に変えるものは?」という問いに「詩(ポエジー)だ」と答えたのは、ゴダールの映画「アルファヴィル」の中の台詞。詩はまさに光だ。店も光となれ!

               中村 将司

今回は、自分の職業に置き換えても共感と勉強になる点があまりに多かったドンマツオ氏のブログより転載させていただきます。
「こちら」 からもご覧いただけます。

「保守」か「自然」か。

 山口防府の印度洋やパンの双葉屋のようなお店は地元のそこを愛する人達にとってはかけがえのないものであろうし、
そういうお店があれば、その存続に協力する形で、他での無駄遣いを無くして、それらの店に立ち寄りたい。
一杯だけお酒を飲むでも、一つ二つパンを買うでも良い。他の実はどうでも良いところでお金を落とすくらいならば、
「ずっといて欲しいなぁ」と思う店にお金を使うべきであろう。(なにしろ実際は本当にどうでも良いところに、
大した理由もなくお金を使っているものである。コンビニでパンやら食べ物やら買ってみたり、ファミリーレストランに行ってみたり。


 そのような「ささやかだけど自分の愛するもの」というものの不在は、無くなってみないと分からないことだけれど、
自分が自分でいることにとっては実に大きな損失なのである。何かと理由をつけて「競争力が足りなかったのだ」とか
「変化が必要だ」とか「経営努力をしてなかった」とか分かったような「現代的」な解釈をしようとするが、
それらはすべて単なる経済の話であって、お金を大きくグルグル回そうとしている社会(という謎の存在)に惑わされているようである。

 昨晩も「クオリティの高いフレンチを、こんな値段で」というようなお店の経営を誉めそやす番組をTVでやっていて、
実に結構なことだとは思ったのだけれど、やはりそれがどうしても必要なものとは思えない。
そのような店に行って「やぁ、おいしい」とフランス料理(立ち食いなのだ)を食べてみたくもあるが、
しかしやはり大した満足感は得れないのではないか。
(同じ経営者が「それまで日陰のような存在であった古本屋を誰でも便利に分かり易く使えるようにした」というBook Off。
こちらに関しては、どちらかといえば害があるようにも思う。特に店内のBGMやら店員の奇妙な従順さに。)
満足感、というのは経済の問題ではなく、魂の問題であって、心が喜ぶことである。それをなんとか上手いことお金の問題に摩り替えようとしている。
テレビは怖いですねぇ。

 ともあれ、ともかく、「変化が必要」とかいちいち競争に持ち込まれることに防御線を張っておかなければならない。
「以前よりももっと良いものを」というのは、クリエイティブな人間にとっては当たり前のことであって、
髪型を変えたり新しいメニューを無理やり加えたりという目新しさを演出することとは大分違う。どうも日本という国は、高度成長期の、
いやもしかすると文明開化以降の時代の「どんどん変わっていくことが当たり前で、それが善」という価値観に、未だに囚われ過ぎているように見える。
その部分はその部分で進行させておけば良かろう。刺激があるのだって、とても良いことである。しかし、それを社会的普遍性として語るのは馬鹿げている。

 変わり続ける、目新しくあり続けることに労力やお金を注ぎ込むよりも、より自分の愛するものに、深めてくれるような物・事にエネルギーを注ぎ込みたい。
それは全然保守的な行動ではない。ただ人間として自然なだけである。保守と自然は、大分違う。
自然とはもっと伸びやかで、手に負えないほど自由なもののことである。
むしろ「高度成長」のような20世紀のイデオロギーに囚われている人達の頭や押し付けの方が保守的であって、古いもののように感じる。
自然でいるのは、常に新しい。それは、自分という人間が、常に新しい存在であるからで、
お店のメニューや内装や、ファッションや髪型が、新しいからではないのである。
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